労働あ・ら・かると
便利な社会と働く人びとを考える文明
一般社団法人 日本人材紹介事業協会 相談室長 岸 健二
私事で恐縮ですが、この10数年ほどの間に我が家の近くはとても「便利」になりました。24時間営業のコンビニエンスストアが徒歩5分以内にあり、同様に24時間営業のお弁当屋さんや外食チェーンのお店が開店し、深夜でも銀行ATMを利用しての預金の預け下ろしができ、食事も食材の購入も四六時中いつでも可能な環境になりました。
コンビニエンスストアは「我が家の冷蔵庫」代わりとなり、「我が家の貯金箱」代わりでもあり、宅配便を預かっておいてくれる「我が家の私書箱」であり、マンガ週刊誌を購入する「行きつけの書店」ともなっています。コンビニエンスストアをはじめとした「24時間営業・深夜営業」は、何とも21世紀的な「便利さ」を提供してくださり、ありがたくそれを享受している筆者としては、自分も含めた日本に住む人びとの生活消費パターンを、約40年ほどの間に大きく変えた存在だとつくづく思っています。
「小売業の規制・規制緩和」に言及する時、必ずと言って挙げられるのが、大規模小売店舗法であり、これが21世紀に入る直前に廃止されたことも、冒頭部分の変化と無縁ではないと思います。更にその前には「百貨店法」によって、大型百貨店はその面積(新増築)について通産大臣の「許可」が必要であり、営業時間(開店閉店時間)や営業日数(定休日)まで、「お国の許可」を要したわけです。
筆者の記憶では、1973年秋の第1次石油ショックの際には、「総需要抑制政策」として、百貨店のネオンサインの消灯が要請され、開店時間も許可を受けていた「10時開店」を繰り下げるよう「強い要請」が為されたと思います。(年齢が判ってしまいますが)当時百貨店の駆け出し法務担当だった筆者は、行政官庁に提出する、「総需要抑制の実施策」といった文書の作成に追われ、また、人事担当と「営業時間が短縮されたのだから、労働時間も短縮して人件費節減ができないか。」「時間レイオフという考え方での賃金切り下げはできないか。」という議論をし、一方で顧客が殺到する洗剤売場やトイレットペーパー売場の雑踏整理に駆り出されたことを鮮明に覚えています。
この時の「総需要抑制策」は、国民からも大きな反対なく「お上の規制」として次々と実施されたわけですが、「規制緩和」が実施された今は、「定休日」という概念は日本の百貨店にはもう見られません。「盆暮れは休み」という江戸時代の小売りの習慣はもう無く、お正月でも早々から福袋を売り出す時代になりました。
ヨーロッパに行かれた方は、国によって日曜日にお店が全く開いておらず、ちょっとした買い物に不便を感じた経験があることでしょう。フランスは小売業の休日規制等を緩和する方向に舵を切ったと聞きますが、総じて欧州全体では、原則として日曜・夜間営業に依然として否定的であり、消費者よりも労働者を重視している姿勢がうかがえます。これらの背景には、もちろん「商売が最優先にされない日が週に1度は必要だというのは、進んだ文明の考え方でもある。(フランス中道政党・民主運動のフランソワ・バイル議長のコメント/出典:パリ産業情報センター舛田崇氏2013.12.10.報告)」という発想、キリスト教文化の国の「日曜日は安息日」という考え方もあるでしょうが、この「働く立場への配慮」の姿勢には、考えさせられるものがあります。
「24時間稼働」そのものは別に最近始まったことではなく、タクシーの運転手さんの勤務条件や、労働基準法第15条(労働条件の明示)の「休暇、交替制勤務をさせる場合は就業時転換に関する事項」の想定する三交代勤務にも見られるわけですが、ILO171号条約(1990年、日本は未批准)では、夜業(午前零時から午前5時までの時間を含む最低7時間以上の継続期間に行われるすべての労働)に関して、従事する労働者については特別の措置(無料の健康評価など)が要求され、同時に採択された同名の勧告(第178号)では、更に細かい補足が為されています。また、1993年制定のEU労働時間指令では「24時間につき連続11時間の休息時間」(いわゆる勤務時間インターバル制度)が必要とされています。
「ワンオペ」と称する、深夜1人勤務体制の外食チェーン店が深夜強盗の標的とされて被害が多発し、その「人件費節約に依拠した労務管理体制による収益性向上」が「ブラック企業」と批判されたことは最近のことですし、「労働集約産業」が大きく雇用を生むと期待された時代と変わり、「人材を深夜でも酷使して便利さを提供し、企業間競争に打ち勝つ」企業がいっとき高い収益を上げて証券市場で一定の評価を受けたことは現実のできごとです。
私の勤務先のひとつの近くに「10分1000円」をキャッチフレーズの散髪チェーンが開店しています。価格と所要時間からすると、これほど利用者にとってありがたい散髪屋さんはないだろうと思えます。でも、お店の前を通過するたびに覘くのですが、お客さんの入りは散髪スタッフ1人当たりせいぜい1時間に2~3人といったところだろうし、店舗家賃や水道光熱費を考えると、どの位の労働分配率で運営しているのだろうか? 最低賃金は確保できているのだろうか? そして例えばここで5年働けば独立して自分で床屋を開業できるだけの資金が貯められるのだろうか? といった気持が沸々と湧き出てきてしまいます。
いまさら、「お上の規制」によって労働時間環境の悪化を阻止せよとか、過度な価格競争を規制せよとは申しませんが、規制緩和をただただ礼賛し「安いこと・便利なこと」を追い求めるが故に、そこで働く人びとのことを忘れてはいないかという疑問が生じてくるのは私だけでしょうか。ついついヨーロッパの日曜日の街の光景と比較したくなります。
「新たな労働時間制度」を打ち上げるのは良いけれど、まずはこの加重な長時間労働の跳梁跋扈をどうにかできないものかと考えてしまうのです。結局のところ私に便利さを提供してくれる目の前にあるお店という職場は、格差社会の申し子ではないかと、深夜牛乳を買いにコンビニエンスストアに行きながら、「苦い便利さ」を噛みしめてしまうのです。
(参考:夜業についての解説/ILO駐日事務所)
http://www.ilo.org/tokyo/standards/list-of-conventions/WCMS_239008/lang–ja/index.htm
(注:この記事は、岸健二個人の責任にて執筆したものであり、人材協を代表した意見でも、公式見解でもありません。)